大阪硝子産業史

佐竹ガラス株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    大阪の中心地から電車で30分。のどかな住宅街にある佐竹ガラス様を訪問いたしました。 社屋は風情ある立派な日本家屋で、思わず写真を撮ってしまいました。
    趣のある囲炉裏でしっかりお話をお聞きした後、 実際にバーナーを使ったトンボ玉を作っている現場も見させていただきました。作り方はとてもシンプルながら、色や模様は一つとして同じものはなく、どの作品も魅力的でした。


    ■佐竹ガラスの創業の歴史
    昭和2年に現在と同じ大阪・和泉市で創業した。社屋も当時から変わらず残っており、国の有形文化財にも指定されている。和泉市は人造真珠の地場産業として栄えており、周囲には10数社のガラスメーカーがあった。佐竹ガラスも人工真珠の核の原材料であるガラス棒材を供給していた。昭和30年頃からは人工宝石向けの様々な色のガラス棒を製造するようになり、当時はアメリカからバイヤーが直接買付けにくるほどであった。創業以来、BtoBが事業の軸となっていたが、15年ほど前には直営店をオープンさせ、直接購入できるようになった。その後、インターネットの普及とともに直営店を閉鎖し、ネット通販に転換させた。この他、トンボ玉教室、工場見学なども行っている。

    ■ガラス産業が衰退する中で
    溶かしたガラスをレールの上に均一に引き延ばし、1本1本職人が手作業でカットいていく。 いわゆる労働集約型のこの業界は、台湾や東南アジアなど人件費の安い国へシフトしていき、日本国内は衰退の一途を辿っていった。 そして、かつて10数社あったガラスの棒材を製造するメーカーは、佐竹ガラスと大阪にあと1社残すだけとなった。
    このような中でも、創業地で一貫して色ガラス棒の製造を行うことができている背景として、個人の作家さんが増えたこともあるが、 色の種類が多いことでお客様のあらゆるニーズに応えられたことにあるという。「目に見える色はだいたい発色することができます」と佐竹社長がいうように、 工場には百何十種類ものガラス棒が在庫されていた。「浅スキ」「浅ギョク」といった佐竹ガラス独自のカラーバリエイションがあり、さらにまだ色の追求もしているそうだ。

    ■色ガラス棒から広がる可能性
    色ガラス棒は、それを高温のバーナーで溶かして加工することで、ネックレス、イヤリングなどの装飾品の他、置物、マチ針など多種多様な製品に生まれ変わる。 中にはマドラーなど直接口に触れるものもあり、人体に僅かながら影響がある場合がある。そのため、ガラス棒の用途にも注意を払う必要があり、工業試験所などで分析や組成の開発などを行ったこともあるという。
    これまでの実績もあって、平成2年には宝塚の清荒神から、鎌倉時代の天蓋、仏さんの装飾品などガラス関係の復元を全て依頼されたことがあるという。 この復元作業は、当時のやり方で復元することが求められるなど高度な技術と経験が必要になるものであった。X線などで成分を分析した資料を基に行われるが、 実際は地中に埋まっていたものは土の分子などが結合し、分析結果通りにはいかないこともあったという。しかしながら、佐竹社長にとっては非常に面白い仕事の一つであったと振り返る。 また、この復元作業の中で、「古代色」「和の色」に惹かれていくきっかけになり、現在も色の追求をしているという。

    ■ガラス業界へのメッセージ
    ガラス業界はかつての勢いはなくなってはいるが、見渡せばやはり特色のあるところだけが残っているように思う。その特色を活かして、わき見をせず、真っ直ぐに突き進んでほしいと佐竹社長はいう。