大阪硝子産業史

オーエムジー株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    取材にあたっては貴重な資料や書籍を用意していただき、事実を確認しながら丁寧にお話いただきました。 ガラス業界のお話だけでなく、堤社長が先人からこれまで言われてきた言葉や経験されてきたお話は印象深いものでした。取材後、工場を外から見学させていただきました。暑いというより熱いと感じる日でありましたが、こういう現場から大企業ではできないニッチな商品がうまれるんだなと感慨深いものがありました。


    ■オーエムジーの歴史/堤社長の経歴について
    オーエムジー㈱は、旧社名有限会社大阪眼鏡硝子として昭和17年8月にいわゆる戦時統合により眼鏡用硝子の事業所として製造業者が統合され昭和18年6月に登記設立された。 昭和20年当時は戦時中で航空機用防弾ガラスなども生産していた島田硝子(株)(現東洋ガラス)の疎開工場として存続したが、 戦後は東洋ガラスへ島田硝子の関連会社として吸収されたのち、昭和24年10月に株式会社に改組して、昭和28年に独立して島田商事と計画し現在の平野区に移転した。 戦後のある時期メガネ業界は景気が良かったが、先代社長時代の昭和40年代は大変厳しい時期もあった。 しかし職人さんを中心に残ってくれた従業員で必死に継続努力を続けてきた。その後カメラ用品や機能性ガラスで盛り返し、 光学部品なども増加し平成12年には眼鏡の文字を外して、現在のオーエムジー(株)に社名変更した。

    現堤社長は昭和48年から3年間ヤマハ発動機(株)を経て、大阪眼鏡硝子(株)に入社した。戦後ある時期70-80人ほどいた従業員は12名まで減り、 その13人目として入社することになった。もともと継ぐ気はなかったが、親の病気や、周りからの勧めもありやってみようと思ったと振り返った。 しかしながら大量生産のガラスレンズやプラスチックレンズが地場ガラスレンズに取って代わるようになり、大阪地場ガラスレンズ業界は斜陽産業と言われていたが、 入社後自分で稼げと言われ、営業兼工場長として全社の力を結集して、自社の特徴や長所を伸ばして、5年で売上5倍にまで増やすことができたという。

    ■ターニングポイント
    1980年代に眼鏡レンズ硝子生地でも年間100万個くらい生産していた時期が10年くらいあり、 90年代に入り(商社ははいっていたが)レイバンとも直接取引をするようになった。アメリカの工場に招かれていったのも深い思い出となった。 大きなターニングポイントは95年頃。超円高という時代がやってきて、日本経済が激変した。受注生産しているだけではいけないと、事業の多角化を大きく意識するようになった。持てるガラス材料技術ででききるものを考え、カメラ用以外の材料など光学分野も幅を広げた。 一方で、人、資金、技術力、場所といった限られた資源の中で進めていく難しさにもぶち当たった。 円高以外にもPL法や環境規制など対応すべき課題も増えていったが、少量多品種で丁寧にサービス業の精神でやっていくことで、又多くの外注協力関係により大変化を乗り越えていった。インターネット時代にいち早く対応して、これまでとは違う産業分野からの引き合いも増え、インターネットを通じた独自性のある発信力の重要さを増々感じる日々である。

    ■諸先輩からの助言
    「実験を自分の都合の良いように解釈するな。自分の仮説からの悪い結果を勝手に排除するな。」と言われたことがある。 つまり、自分の都合の良いように結果を添わすのではなく、異常でおかしいと思ったことについて、その因果関係をきっちりと検証していくという大事さを学んだ。 虚心坦懐に事実と向き合うことが大事であり、経営者という立場は自分の家族だけでなく従業員、取引先などを多くの生活・命がかかっているのだからと思うようになった。

    ■大阪眼鏡硝子のリバイバル
    現在、息子である堤友厚取締役の主導により、大阪眼鏡硝子の名でTHINGLASS(シングラス)という眼鏡ブランドを立ち上げた。 もともと、平野区のお隣の生野区周辺は眼鏡製造に関わる工場がたくさんあり、大阪の地場産業であった。

    事業が多角化する中で、戦時中から続く事業を見直し、リバイバルを図っているまさに真最中だという。 東京の南青山の最先端のセレクトショップに飛び込みで営業し、販売にまでこぎつけた。2017年OMOTENASHIセレクションに選出され、 「眼鏡Begin」などファッション雑誌にも取り上げられるなど、情報発信の仕方が多様化する中で、こういったメディアもうまく取り入れる必要性を強調された。傷がつきにくく歪みのすくないガラスの特徴をしっかりとアピールし、かつて大阪の地場産業であった「ガラス」と「メガネ」を新世代が新たに発信している。