大阪硝子産業史

松野工業株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    グラスビーズはあまり馴染みがあるようであまりありませんでしたが、実際に見てみるとまさに高級品にふさわしい輝きでした。 松野末吉社長時代に築かれた基盤は脈々と引き継がれ、ビー玉製造では日本で唯一のメーカーとして今なお製造していることに感服しました。 また、ビー玉の玩具やラムネ以外の展開も期待したいと思いました。


    ※詳細な事前資料をいただいておりましたので、一部引用させていただいています。

    ■松野工業の歴史
    昭和10年、先代の松野松太郎が松野硝子工業所を創業。現在は業界で唯一となっているビー玉製造はこのときから始めた。 昭和22年に松野末吉氏が松野工業(株)として法人化した。 当時大阪にはグラスビーズを製造する会社は多くあり、パイプを引くだけの会社、そのパイプをカッティングするだけの会社、カッティングしたシードビーズを丸めるだけの会社とそれぞれ工程別に棲み分けされていた。 当初松野工業もカッティングは外注で生産していたが、他社から機械を購入し、自社で改造などを進めて独自のカッティングマシーンへの展開していった。 また、このときから機械を自社でメンテナンスするという技術も蓄積され、現在も築炉部や鉄鋼部に引き継がれ、自社で機械を製造からメンテナンスまで対応している。 また、戦闘機に乗っていた経験から、海外にも常に目を向け視野が広かった松野末吉社長は、モノづくりだけでなく情報収集にも注力し、当時としては珍しく香港に事務所を設けた。

    昭和61年には、宮崎県門川町に九州工場を竣工させた。ガラス工場はいわゆる3Kといわれる業種で、人手不足が深刻であった。 たまたま取引先の会社のあった宮崎に行った際に門川町を訪れ、若者が多いながらも働き先のない現状を見て、宮崎への工場の移転を決断した。 また、平成4年にはグラスビーズ溶解炉を増設し、月間100トンの生産体制を構築した。現在は、大阪工場からこの宮崎の九州工場に生産拠点を集約し、大阪工場では仕上げの部門だけが残っている。

    平成9年に松野幾二氏が社長となり、今年6月には松野龍太郎氏に引き継がれた。幾二社長の時代からは、組織体制も大きく変え、社員の技術向上にも力をいれている。 社員一人一人にテーマを与え、オンリーワン企業であるからこそ自分でやる力をつけるというのを目標としている。 また、現在はビー玉、ビーズなどの主力製品の製造・販売のほか、輸入雑貨商品の販売や賃貸業など多角経営も行っている。

    ■大量生産とその後
    グラスビーズは民芸品で使われる安価なものからいわゆるオートクチュールなど高級品まで多様なニーズがあり、大量生産に追われ、供給ニーズを満たすために品質が疎かになっていた時期があった。 一方で、韓国、台湾、中国なお安価で大量生産できるメーカーが台頭してくると、松野工業としての役割を自問自答するようになった。 その答えが、生産量にとらわれず世界の需要ピラミッドの頂点の一握りの需要に応えるというものだった。この経験から、エンドユーザーの声をものづくりに反映するなど、品質にも力を入れている。

    ■ビーズのトレンドと今後の展開
    現在、ビーズの多くはアメリカや中東に輸出されている。アメリカはイブニングドレスなど高級品に使われている。 しかしながら、リーマンショック以降は安価な中国製品に押され気味になっている。一方、中東では伝統的な衣装にビーズが使われ、ドバイを起点に一大マーケットになっている。 中東では既製服はあまりなく、テーラー仕立てでカスタマイズも多い。これがビーズの需要にもつながっている。

    中国など安価なビーズメーカーが台頭してきているが、環境規制などでメーカーは苦心している。 松野工業としてはメイドインジャパン回帰向けて品質で勝負をし、まだまだ続けられる100年企業を目指したいと考えている。 また、ビー玉は日本で唯一残るメーカーであるが、新たなニーズや販路なども開拓していきたい。