大阪硝子産業史

川本工業株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    国内外の製薬業界の事情も交えながらお話いただき、アンプルとそれにまつわる社会的背景を理解することができました。 また、今では当たり前ではありますが、ITを活用した業務の効率化を、昭和の時代からしていたというのは驚きでした。


    ■川本工業(株)の歴史
    昭和16年、大阪旭区森小路に川本佐治郎氏を代表とする東洋硝子器製作所を発足。 医療用アンプルの製造販売を行い、当時は工場を持たず、内職のような形で職人さんに外注をしていた。 昭和24年に川本佐忠氏を代表とする川本硝子工業所を設立し、その後東洋硝子器製作所を合併、川本硝子株式会社を設立した。 昭和29年には日本機械アンプル企業組合を吸収合併し、職人や機械などもそのまま引き取り、事業を拡大させた。 昭和43年に、医療用硝子器部門に加え産業機械部を設置し、社名を川本工業株式会社と変更した。 昭和44年には山口県小野田市に小野田工場を新設・操業開始する。平成7年、47年弱代表を務めた佐忠退任後、現社長の吉昭氏が社長に就任した。

    ■小野田工場の新設と合理化への取り組み
    昭和44年に、山口県の小野田市に工場を新設した。 当時人手不足の解消と、取引先の田辺製薬が小野田市で注射器の製造を始めたことから、同市で工場を建設することになった。 小野田市役所や、田辺製薬のバックアップでリクルートを行い、職人や従業員を確保した。

    小野田工場では、品質管理を徹底しデジタル化で業務の効率化を進めた。 ノートPCが世の中で出だしたころで、事務所内で全ての管理ができるようになった。 当時、ここまで早くITを導入して・実践しているところは珍しく、日立が視察にくるなど注目された。

    一方で、大阪とは違い、人材育成には苦労をしたこともあった。自動計測器を導入した時は、 大阪ではうまくいったが小野田工場ではうまくいかないといったジレンマもあった。 しかしながら、機械の使いかたに工夫を加えながら、軌道に乗せることができた。

    ■産業機械部の設置
    昭和43年に産業機械部を設置した。アンプルの洗浄や滅菌ができる機械を作り、製薬メーカーなどに販売した。 当時、手加工の職人が残っており、機械を作る際にアドバイスをしてもらったりしていた。 また、武田薬品がミャンマーに工場を作るときにこの機械を導入してもらうなど、多くの実績を作った。

    この他、産業機械部では、ベビーベッドの耐久試験機や、ローラースケートの耐久試験機、金属バッドの耐久試験機なども作っており、 通産省の試験所などに設置されていた。

    ■アンプル業界の変遷
    昭和37年頃国民皆保険制度が始まると、アンプルの需要が一気に増えた。 ビタミン剤などの注射が保険適用になり、多くの医療機関でアンプルが使われた。 しかしながら、アンプル入りの風邪薬で死亡者がでるなど薬害とたたかれ、アンプルの需要が一気に落ち込んだ時期もあった。

    社会的背景からアンプルを使った注射器の需要が減っただけでなく、ハンドリングのしやすさから樹脂容器の置き換えも進み、 アンプル業界は苦境の時代を迎えるようになる。一方で、アンプルはなくてはならない容器には変わりはなく、家電業界と異なり価格も安定している。 このことから、生産量と人とのコントロールをうまく図っていくことが、この業界の生きる道であるという。