大阪硝子産業史

神谷硝子製造株式会社 訪問報告書

ー 取材を終えて ー
先日会長が急逝されご多忙中にも関わらず、お時間いただき取材を受けていただきました。 会長からお話をいただく予定でしたが叶わなかったため、現社長の携わってきた範囲での取材になりました。 玄関にディスプレイされた様々な作家さんの作品をみて、形だけでなく色によってもその印象が大きく違ってくることがよくわかりました。 また、見学させていただいた工場は、昔から使っている道具や機械なども置いてあり、何か懐かしさも感じました。


■神谷硝子製造(株)の歴史
明治42年頃、浪速区境川にて現社長の曾祖父にあたる作次郎氏が神谷硝子製造所を創業、昭和39年の正一氏に代わるまで長きに渡り陣頭指揮を執った。 大正15年、事業拡張のため、港区辰巳町(現在の市岡地区)に拠点を移した。 このころ、模造真珠なども製造していたといわれており、多くの従業員が工場の周辺から通っていたという。 第二次世界大戦中は、企業整備令により大阪硬質硝子(株)となり、医療用硝子管生地やアンプルなどを製造していた。 その後大阪空襲により被災したが、戦後再建、神谷硝子製造株式会社として法人化した。 昭和34年には、大阪環状線の整備により、現在の港区波除に移転した。 昭和58年には憲司氏が社長になり、大阪硝子工業会に加盟、理事としても工業会にも尽力した。その後、平成28年からは周平氏が社長となっている。

■事業について
現社長が入社された25年ほど前は、ガラスの素材のほか、おはじきの色ガラスや、時計の軸受けなどを製造していた。 時計の軸受けはプレスで剣山のような形状に成型し、それをカットして1個1個検品するという細かい作業であった。

現在は、工芸用のガラス生地や、水処理用のケミカルガラスを製造している。 工芸用ガラスは、岡山の小谷氏が手掛ける倉敷ガラスの生地として使われている。 倉敷ガラスは、小谷眞三が確立させた吹きガラスで、小谷ブルーと呼ばれる独特の青色を使ったガラス食器が有名である。 このような工芸用ガラスの生地は、お客様(作家さん)の要望に合わせて少しずつ違った色を作っている。中でも、薄い色は技術的に難易度が高く難しい。 ケミカルガラスは、銀を含有することで、銀イオンの効果を使って殺菌でき、水処理に使われている。