大阪硝子産業史

大和特殊硝子株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    大正年間からという長い歴史があり、古い記録が少ない中、資料をかき集めていただきお話いただきました。 硝子だけでなくプラスチックも取り扱い、時代の流れや社会の要請にも随時応えていくという姿勢は「総合サプライヤー」としてリードしていこうという表れと感じました。 一方で、技術開発にも力を入れ、硝子屋としてのアイデンティティもしっかり引き継いでいくという意志も感じられました。


    ■大和特殊硝子歴史
    大正時代に武田薬品工業向けのアンプルを製造する商店として創業し、昭和17年、武田薬品工業の関連会社として戦時アンプルなどを製造する会社、三ツ矢アンプル製造を設立した。 福岡県の吉富製薬(現在の田辺三菱製薬)の敷地内に出張所と工場を建設し、主に吉富製薬向けのアンプルを製造する拠点を構えた。 昭和19年には、三ツ矢特殊硝子製造に名称を変更、半人工瓶(輸液を入れる瓶など)を製造していた。 昭和25年に現在の大和特殊硝子(株)に名称を変更し、昭和30年に堀上工場(現新高工場)を新設した。昭和39年に三津屋工場において管瓶の製造を開始し、現在の主力事業となっている。

    ■アンプルの手加工から機械化へ
    アンプルメーカーというのは、いわゆる「職人さん」の集まりで、技術を蓄積していったというよりは一人一人の職人技で支えられていた。 しかしながら、時代の流れの中で、自社にてガラス生地管の製造をやめ、自動成形と移っていった。(今では、国内で生地管を製造しているのは日本電気硝子の1社だけになった。)

    ■製薬業界の変化とともに、総合サプライヤーとして
    アンプルメーカーは、製薬業界や、社会の医療事情に沿って事業が成り立っていた。 ビタミン注射が保険適用であった80年代にアンプルは最盛期を迎え、その後、食料事情もよくなり、経口でビタミンも摂取できるようになったことなどから、保険適用から外れることになった。 そのため、ビタミン注射は大きく減少し、アンプルの衰退の一途をたどることになった。

    一方、平成20年に現在の主力事業である管瓶生産を新高工場からの移設と、今後の需要増に備えての増産体制に対応すべく、市島第2工場を竣工した。 また、製薬会社のあらゆるニーズに応えるべく、樹脂容器の製造や、医薬関連商品、海外製医療容器および医療機器等の取り扱いを増やし医薬関連商品の総合サプライヤーとしての位置付けを図った。

    ■自動壜の変遷
    昭和43年には、タンク炉を新設し、自動壜の製造を開始した。当時、東洋ガラスと業務提携をし、機械や人(技術者)を導入し、ドリンク瓶をメインに製造を始めた。 また、昭和59年に、ISマシーン、平成元年には、EISマシーンなどの成形機を導入し、大量生産への対応を図った。 自動壜業界は寡占状態の中でも、大手の瓶メーカーが一升瓶などの大きい瓶、中小は小さい瓶というように上手く棲み分けができていた。 しかしながら、約20年前から酒瓶の需要が減っていく中で、その垣根がなくなってきており、大手でも小さい瓶を製造するようになるなど競争が激しくなっている。 自動壜の需要は90年代にピークを迎え、平成24年にはピーク時の約50%となった。 90年代には男性向けの精力増強のドリンク(アリナミンなど)が多かったが、最近では、女性向けの美容を謳った栄養ドリンクが増えている。 平成23年の東日本大震災直後からの燃料の高騰により、当社の自動瓶部門は採算が悪化し、自動壜工場(市島第1工場)は、現在休止に至っている。

    ■設立50周年事業として、市島工場の建設
    当時、ドリンク瓶のニーズが増え、8,200坪もの用地に市島工場(丹波市)という大規模な生産設備を新築した。 ドリンク瓶の増産という目的もあったが、公害問題が社会的に深刻になる中で、社会的要請も背景にあった。 当時、神崎川工場(大阪市)の周辺は住宅化が進み、24時間操業の工場にとっては、夜間の騒音問題が懸念されていた。このような中、50周年事業としてプロジェクトを進め、平成6年に市島工場が竣工した。

    ■今後の展開
    最近の当社の最大のヒットは、VIST(ガラスバイアル用低アルカリ技術)という独自技術の開発であり、昨今、海外からの引き合いも多くなっている。 さらに新しい技術の開発も進めており、常に新しい技術に目を向け、お客様のニーズに幅広く応えていきたいという意気込みを桑原社長に語っていただきました。