大阪硝子産業史

大阪特殊硝子株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    明治25年当時の古いカタログを持参いただき、刊行物としても高い価値があるものとみてすぐわかり、1ページ1ページにその歴史の重さを感じました。時代に応じて製造するものが変遷していく中で、一貫してガラスをベースとしたモノづくりを続けられており、どの時代でも必要とされるガラスの価値を改めて実感いたしました。


    ■大阪特殊硝子(株)の歴史
    明23年、石木為治氏が石木硝子製造所を創業。現在の大阪硝子工業会のある場所で船燈用ガラス、照明用ガラスなど様々な特殊ガラスを製造していた。船燈用ガラスには、右舷と左舷で色を分ける必要があり、緑や赤の色ガラスが使われていた。当時色ガラスを作ることができる会社は少なく、高い技術力を持った会社であったといえる。

    昭和5年には、艦船用覆ガラスや、ボイラー用ガラスの納入実績により、海軍指定工場となった。また、昭和6年には鉄道省指定工場となり、機関車用ボイラー水面計硝子や、信号用レンズなどを製造した。 第二次世界大戦では、大阪空襲で工場が焼失、窯だけが残った。この時、すべての資料が焼失したが、創業当時のカタログだけ辛うじて残った。

    終戦後、昭和22年に大阪特殊硝子株式会社に組織変更した。船燈用ガラスの製造は昭和40年頃まで続き、昭和43年には照明事業へシフトしていった。高度経済成長期から照明の需要が拡大し、平成にはいるまで事業の柱となった。

    平成3年にリフレクター(反射鏡)を開発し、光学分野にも進出した。当時、プロジェクターは黎明期で、高い精度を要求される光学部品を製造できる会社は少なかったが、ガラス素材を開発する技術、成型する技術、真空蒸着の技術などを融合し、いち早く参入することができた。現在も、照明用ガラスとプロジェクター用リフレクターが事業の核となっている。

    ■海外進出
    昭和62年に台湾、昭和63年に韓国と合弁会社を設立した。ガラス業界の共通課題である人材不足を解消するためであったが、この時代に海外進出を果たした会社は珍しく、業界内でも最も早かった。海外ではコスト対応品、日本では付加価値のあるものを製造した。当初、台湾と韓国の2か国で製造をしていたが、その後の両国の人件費引き上げなどで、平成6年に中国上海に現地法人(石木玻璃製品(上海)有限公司)を設立した。また、平成8年には石木灯飾日用品(上海)有限公司、平成16年には石木光学技術(上海)有限公司と、上海での拠点を増やしていった。現在では、製品の98%を上海で製造している。

    商習慣や国による規制など、中国での事業の難しさから撤退する企業が多い中、20年以上にわたり上海で事業を継続している。中国で仕事をするノウハウと経験から、現在では商社としての事業も行うようになった。大手企業の製品を販売する窓口にもなっており、上海での「石木玻璃」の信頼度は高い。