大阪硝子産業史

大商硝子株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    コミュニケーションスペースと呼ばれるプランニングルームでお話いただきました。四方は明るいショーケースで囲まれ、非常に気持ちが高まるような空間でした。 会議スペース一つをとっても、大商硝子様のこだわりである高いデザイン性が強く感じられました。 また、同じ型のボトルでも、色、印刷のデザイン、使われ方で、まったく違う印象を与えるのがとても不思議でした。


    ■大商硝子歴史
    1917年土出英吉氏が神戸の居留地でガラス瓶の卸業を始めたのが創業の始まりで、 土出氏はバイタリティ溢れる人物で、国の海外の視察団の団長を務めるような人物でもあった。1949年に株式会社に改組し、1956年には今の大商硝子に社名を改めた。 現在は、プラスチック容器や点滴バッグのジョイントパーツなどを扱う大商化工(株)と貿易・商社部門の大商(株)というグループ会社も併せて総合的なニーズに応えている。

    ■-砡-GYOKU-
    1964年には砡という白色ガラスの容器製造をスタート。砡を中心に多数の色びんも加え、酒、飲料、調味料、食品容器から医薬品容器まで幅を広げている。 この乳白色の瓶はロングセラーで現在も続いており、極東地域で唯一、大商硝子のみが自動製造ができるメーカーになっている。

    ガラス瓶は製造過程で、金型からビンを取り出しやすくするために離型剤を使うが、離型剤が炭化して小さな黒い欠点がつくことがある。この離型剤を使わずに製造するには高い技術力が必要とされるが、蓄積した独自のノウハウで、離形剤を使わずに製造することに成功した。GYOKUの乳白色はこうした技術の支えによってできた賜物であった。

    ■ブランディング
    2000年頃から企画汎用型を充実させ、小ロット・低コストを実現した。同時に、デザイン性の高いものにこだわっていった。 従来はデザイン性の高いものはコストだけが高くなり、特異な形状であれば目立ちはするが、汎用性に乏しいという一面も持ち合わせる。 しかしながら、「そこから脱却」という目標を掲げ、実現へと進めていった。また、こうしたブランディングの流れは、新たな商圏、差別化などの狙いもあったが、いわば生き残るための戦略でもった。

    カタログ、ホームページ、展示会など様々な情報発信のツールを用い、ブランドイメージを定着させてきた。 デザイン戦略室室長の中村様は、常に大商のブランドイメージ押し引きながらコントロールするかがポイントだという。 そのベースは社員一人ひとりが「期待を満足に、そして感動を。」という事業方針を胸に日々努力し、 オリジナリティ溢れる発想を生み出す企業としての存在感を示すことで、感度の高い人に魅せるツールとしても着実にマーケットに浸透していった。

    ■コミュニケーションスペース
    各拠点にコミュニケーションスペースという新しいスタイルの商談スペースをつくった。ここには大商硝子のオリジナルのデザインのサンプルをみることができる 。カタログには「想いを、かたちに変える場所。」と表し、単にお客様との商談を進めるだけでなく、アイデアを生み出す場所と位置付けている。

    ■鳴門工場
    大阪本社・工場は周辺の住宅化がすすみ、1986年に鳴門に工場を移転した。大塚製薬が鳴門に工場があったため、供給面から鳴門を選んだ 。この鳴門工場は、煙突がなく、電気炉を使うなど当時としては珍しく環境に配慮した工場であった。 また樹脂工場も併設しており、これも日本で唯一、大商硝子の特徴となっている。