大阪硝子産業史

浅井硝子株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    今回の社史の取材で初めての女性経営者ということで、とても興味深く拝聴させていただきました。 25年前にお亡くなりになった2代目の社長が残された詳細な資料をもとに、苦境の時代を経て現在のご発展に至るまでをお話いただきました。 職人さんが支える保守的なイメージの強いガラスびん業界ですが、常に先を見据えた事業展開をされているなと感じました。


    ※下記の報告にはお借りした資料の内容を一部引用しているところがあります。

    ■浅井硝子の歴史1(創業から昭和30年代)
    浅井伊三郎氏が昭和15年に創業。伊三郎氏が山瀬硝子を経て独立し、硝子問屋業を始めたのが成り立ち。 創業当時、化粧品は贅沢品であったため、製造販売制限規制が発令された。そのため、一時営業を休止するなど苦境時代を経験する。

    戦後は、資生堂やポーラなど大手化粧品メーカーとの取引も徐々に回復していった。 昭和25年には、株式会社浅井硝子製瓶所として法人化した。この当時、ガラス産業界においても、統制経済が解除され、飛躍的に発展していった時代であった。 昭和27年にはサンスターが発売した歯磨きの容器にガラス瓶が採用され、注文を受けるようになった。 このころ、取引先様の後押しもあり、工場を建設しビンの製造も始めるようになった。これが製造業としての浅井硝子の始まりになった。

    ■浅井硝子の歴史2(昭和40年代~平成初)
    昭和40年代に入ると、福岡県の取引先様への出張の際によく見ていた焼酎瓶に販路を見出し、酒蔵メーカーにガラス瓶の売り込みを始めた。 その後、徐々に焼酎瓶の販路を拡大し、九州出張所を開設した。さらに、その後、焼酎ブームが到来し、急激に業績を伸ばしていった。 一方、昭和58年4月に先代社長の急死にともない、浅井智行氏が社長に就任した。平成2年には東京営業所を開設した。

    ■浅井硝子の歴史3(平成初~現在)
    平成5年、浅井幸子氏が社長に就任した。当時、母親の介護を11年続けているような状況であったが、周囲の人からの助言が後押しになり、 社長業を引き受けることになった。社長就任後は、大胆な人事改革を実行し、社長就任の翌年には過去最高の業績をあげるに至った。

    しかしながら、平成7年の阪神淡路大震災で、もともと老朽化していた工場が雨もりなどの被害を受け、建て替えが必要な状況になった。 当時は半人工で製造しており、多くの職人さんを抱えていたが、建て替え費用が7億円もかかることがわかり、製造を廃止する決断をした。 そして、平成8年からガラス瓶のメーカーから商社へと転身するに至った。現在では、ボトル、キャップや中栓などの樹脂製品を製造出来る自社工場を持っている。