大阪硝子産業史

新井硝子株式会社 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    医者でありながら、多角経営で硝子以外の様々な仕事をしている新井社長ですが、すべての基本は新井硝子と考えているというのが印象的でした。 製造業から問屋業に業態が変わるなど転換期はありましたが、先代から続く硝子屋としてのアイデンティティは脈々と引き継がれているのだということがよくわかりました。


    ■新井硝子(株)の歴史
    昭和20年に新井康弘氏が城東区新喜多で創業。化粧瓶、薬瓶などの玉瓶といわれる白い瓶の製造をしていた。 当時二大大手化粧品メーカーであった花王石鹸(現(株)花王)、中山太陽堂(現クラブコスメティック)のクリーム瓶の製造をしていた。

    昭和21年、現在も取引が続く金鶴香水(株)(現(株)マンダム)が扱うガラス瓶の全部を受注、専属工場となった。 昭和22年に新井硝子産業(株)と改称し、人工吹製壜の業界では初めて半自動製壜機を導入した。 24時間操業で、受注生産だけでなくオリジナルのガラス瓶も作っていた。当時、ガラス瓶は作っては売れるという時代でもあった。 昭和23年には、全自動製壜機の導入で製造の拡大を図るとともに、業界で初めて電気炉を導入した。昭和45年8月に原因不明の工場出火により製造を廃業し、硝子瓶全般を扱う問屋業に転換した。

    昭和52年に新井基道氏が社長となった。合併により南大阪ビルディングガラス部と改称し、本社を現在の所在地に設置した。 平成6年に現社長の邦彦氏が入社したころは、ガラス瓶業界は斜陽産業と言われていた。 1デザイン100万本出荷し倉庫を持つほどであったが、現在では多品種小ロットに対応し、輸送も客先が指定するトラックに混載するなど効率化を図っている。 平成11年に新井硝子株式会社に改称し、業務拡大を図っていった。平成26年邦彦氏が社長に就任、現在に至る。

    ■(株)マンダムとお付き合いの中で
    マンダムとは昭和21年から続く取引先で、ほぼマンダム向けのガラス瓶のみを取り扱っている。 「最先端だが昔のことを忘れない」という“マンダムイズム”を掲げ、新井硝子との取引も信頼と信用で成り立って継承していけているという。 マンダムは西村家が経営をしているが、西村家で新井社長のことを知らない人はいないほどである。一方で、1988年のマンダム上場後は、色々な面で難しいと感じることもある。 マンダムあっての新井硝子と考え、マンダムの社員でもあるという気持ちで行動することで、次の仕事につなげている。

    ■今後の展開
    富士フイルム、味の素など異業種が化粧品業界に参入するなど、新たな潮流で大きく変化をしていっている。 また、化粧品の瓶に樹脂を使うことは考えられず、全く脅威と感じていなかった時代もあったが、今ではそのニーズは逆転している。 このような中でも、いかにガラスの良さを提案するかが使命であると考えている。マンダムの新商品開発の社内会議に於いて、 包材開発部や購買部の担当者がプレゼンするにあたり、ガラス瓶の良さをアピールする下地を作るのも新井硝子の仕事である。

    マンダムは自分からマーケットを作っていく会社であるという。現在、これまで注力していなかった女性をターゲットにした商品の発売や、 汗臭・加齢臭・ミドル脂臭対策など、他社と異なる着眼点の商品開発に力をいれているが、その中でもガラス瓶で役に立てられればと考えている。