大阪硝子産業史

株式会社赤川硬質硝子工業所 訪問報告書

    ー 取材を終えて ー
    製品1つ1つに物語があり、取材の時間が短く感じられるほどでした。工場はまさに研究所のようで、あのガラスもここで作っているのかと驚きと技術力の高さを実感しました。硝子の素材は、一般にはなかなか触れる機会が少なく難しく感じますが、最終製品を聞くと誰もが知る製品で、身近に感じるようになりました。


    ■赤川硬質硝子の歴史
    1929年、現社長の伯父が田辺硬質硝子製造所を設立し、アンプル管の製造を始めた。その後、大阪旭区赤川にあった赤川工場から分離独立したのが、赤川硬質硝子工業所である。当時は、試験管やビーカーなどの理化学用の硝子など様々な硝子製品を製造していた。日本電気硝子との関わりも深く、当時赤川硬質硝子が日本電気硝子へ資金援助など行い、アンプルの自動引きの成功に導いたといった経緯がある。現在は、小ロットでお客様が要望する特殊なガラスを開発から製造まで行っている。

    ■高い技術と幅広い製品
    他社では数種類くらいの取扱いが多いが、赤川硬質硝子では100種類もの硝子を開発・製造している。胃カメラ用硝子、G-SHOCKのカバーガラス、航空・宇宙用、照明用など多岐にわたり、書ききれないほど幅広い製品に使われている。最近では、ホームページからの問い合わせも増え、小ロットでも生産対応している。特殊な硝子製品、硝子素材のため、機械や炉などは自社で開発したものを使い、独自の生産技術で製造している。

    ■時代の潮流と苦境の時代
    携帯カバーガラスの引き合いが増え、森ノ宮や尼崎に工場を新設した。ボリュームの大きな製品の製造キャパを確保するためであったが、こういったボリュームの求められる製品を製造し続ける難しさを経験した。最終的には工場を閉鎖することになったが、現在は本社に集約して、小ロットで引き受ける体制を整え、細やかなリクエストにも応じることができるようになった。

    ■新開発の硝子
    応接間に入って最初に目を引いたのは「風を通すガラス」のポスターであった。ナノサイズの穴が開いたガラスで、穴の大きさをコントロールすることで、必要な気体のみを通すというガラスである。用途はまだわからないとのことだが、製品のネーミングもアイデアもとても斬新で印象深いものだった。また、各企業などで講師として指導もするなど、活躍の幅も広がっている。